宇都宮LRTの経緯(3) LRT構想の萌芽と政治的混迷-2005年まで

2.工業団地とLRT構想の萌芽 - 2003年まで

  1976年に造成が完了した清原工業団地は、市街地から10㎞離れた市東部の鬼怒川左岸に位置し、内陸型としては国内最大規模(総面積387ha)の工業団地である。キヤノンカルビー中外製薬などの工場が立地しており、従業者数合計は1万人である。工業団地内には、県内最大の宇都宮清原球場(収容3万人)、Jリーグ栃木SCの本拠であるグリーンスタジアム(収容1万8千人)も位置している。

 清原工業団地の北には、2013年に事業完了した、宇都宮テクノポリス地区がある。UR(都市再生機構)の区画整理により造成されたニュータウンで、計画人口は1万3千人である。

 さらにその東の芳賀町域には、芳賀工業団地と芳賀・高根沢工業団地が作られ、ホンダ技研とその関連企業を中心に、従業者数は2万2千人を数える。

 

 LRT構想が初めて公に語られたのは、1993年の宇都宮市街地開発組合の議会において、組合長である渡辺文雄栃木県知事が導入意向を表明した時にさかのぼる。この組合は、清原工業団地造成のために、栃木県と宇都宮市の共同出資で設置された一部事務組合(特別地方公共団体)であり、知事発言を受けて組合内に「新交通システム研究会」を設け、検討を開始した。

 当時から、宇都宮市街地と工業団地の間の道路渋滞は深刻化しており、これに対応するために公共交通機関の導入検討を開始したとされる。また、工業団地が造成、分譲されていた当時から、将来モノレールを導入して従業者輸送を行うといったことが、アイデアレベルで存在していたという。

 その後、検討の主体は県・市に移行し、2001年には方式としてLRTを導入する基本方針が定まり、2003年には基本計画が策定される。ここまでの検討は、県を中心としておおむね順調に進んでいたように見える。しかし、この途上2000年の県知事選挙で福田(昭)氏が当選したことから、LRT計画の混迷が始まる。

 

3.知事交代と政治的混迷 - 2003年から2005年

 

 福田昭夫氏(1948年生まれ)は今市出身で、東北大卒業後に今市市職員となり、財政課長の職にあった1991年に今市市長に当選した。そして、2000年11月には知事選に立候補し、5選を目指して自民党などの推薦を受けた現職の渡辺知事と、選挙戦を繰り広げた。

 当時の福田(昭)氏は保守系無所属とされており、いわゆる保守分裂選挙の様相となったが、既存政党の支持を受けなかった福田(昭)氏が無党派ブームに乗る形で支持を広げ、875票の僅差で初当選を果たした。

 当選後の福田(昭)知事は、ダム建設の見直しなど改革派的動きを強め、LRTについても否定的な立場をとり、それがLRT計画に大きな影響を与えていく。

 

 2003年5月に、「新交通システム導入基本計画策定調査報告書」が公表された。これは、栃木県と宇都宮市がとりまとめたLRTの基本計画であり、①駅西側の桜十文字付近から宇都宮テクノポリス間の延長15㎞にLRTを導入し、②そのうち駅東側の12㎞が当初計画区間と定めたもので、渡辺知事時代からの検討を継続した内容であった。

 ところが、福田(昭)知事は「事業費過大で採算性が確保できない。」としてこの報告書に対して否定的な見解を表明し、この知事の意向を反映して、県の姿勢も変化していく。

 2003年9月に、栃木県は宇都宮市に対して、今後の進め方について2つの案を提示した。A案は「今後5年間程度整備スケジュール検討を凍結し、鬼怒川渡河部の交通渋滞緩和や中心市街地の活性化など、直面する様々な課題整理を優先する」、B案は「市が速やかに整備にとりかかりたい場合は、市が主体となり県は支援協力する」というものであった。この時点で、県によるLRT検討はストップすることとなった。

 宇都宮市は県に対し、県・市が引き続き一体となって検討を続けることを要請したが、2004年7月には知事がLRTの凍結方針を改めて表明するなど、進展は図られなかった。

 

 2004年11月に行われた知事選では、再選を目指す福田昭夫知事に対し、自民党推薦の福田富一宇都宮市長が挑み、12万票差で福田(富)氏が初当選した。福田(富)氏も今市出身(1953年生まれ)で、宇都宮工業高を卒業して県庁職員となり、29歳で宇都宮市議当選、その後県議を経て1999年に宇都宮市長に就任し、市長2期目での知事選立候補であった。福田(富)氏が知事に転出した宇都宮市長には、新宇都宮カントリークラブ社長で、日本青年会議所副会頭などを歴任し、福田(富)氏の後援者の一人であった佐藤栄一氏(1961年生まれ)が当選した。

 宇都宮市長時代の福田富一氏は、渡辺元知事と連携して、県・市一体となったLRT検討を推進していた。知事就任後もその姿勢は変わらなかったが、もはや時計の針が戻ることはなく、これ以降のLRT検討は宇都宮市を中心として進むことになり、県はこれを支援する立場となった。

 また、落選した福田昭夫氏は、2005年9月の衆議院選挙に栃木2区(鹿沼・今市・日光など)から民主党公認で立候補し、比例復活で当選を果たした。その後現在まで5期連続当選を続け、現在は立憲民主党所属である。LRTに対しては一貫して反対の姿勢を崩しておらず、LRT反対団体と連携し前面に立って活動している。福田(昭)代議士が代表を務めていた民主党栃木県連も、2006年からLRT反対を唱えている。

 

 このように、民意を受けた選挙の結果および首長の意向で、LRT導入方針がめまぐるしく変化したこと、また現職の県選出国会議員が反対活動の中心にいることなどから、LRTに対する賛成・反対は政治問題化し、その後今に至る長い議論が続いていくこととなった。

 

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